建築学部開設記念 レクチャーシリーズ 3
No.8 浜野 安宏(はまの やすひろ)氏 講演会
「生活地の創り方」
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開催日時 | 2012年10月19日(金) 18:00~20:00※終了しました |
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会場 | 工学院大学新宿キャンパス 3階 アーバンテックホール(アクセスマップはこちら) | |
講演テーマ | 「生活地の創り方」 | |
講演者 | 浜野 安宏
Yasuhiro Hamano (ライフスタイルプロデューサー) ![]() -プロフィール - ライフスタイルプロデューサー。1941年京都生まれ。日本大学藝術学部映画学科演出コース卒業。株式会社浜野総合研究所 代表取締役社長、特定非営利活動法人 渋谷・青山景観整備機構(SALF)専務理事、中国人民大学 名誉客員教授。 |
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ナビゲーター | 下田 明宏 Akihiro Shimoda(工学院大学建築学部まちづくり学科教授) |
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お問合せ先 |
工学院大学 建築学部開設記念講演会事務局 電話番号:03-3340-0140 メール:infokenchiku●cc.kogakuin.ac.jp(●を@に直して送信してください) |

新宿の街並み―ビックロへの批判
わたしの仕事は街にいっぱい入り込みます。今日の話が面白いと思ったら、街をもっと歩いてみてください。
まず、この西新宿から始めたいと思います。わたしは27歳(1968年)のころ、最年少で新宿新都心開発協議会の商業部会の委員になりました。わたしはそのときの都市計画案に対して、暗い300mの地下街にホームレスがたまり、スカイラインをふさぐ立体交差の橋梁はこの街を著しく商業の流行らない街にする、ということを指摘しました。高層ビルを勝手気ままに建てると人の流れがなくなってしまい、商業が流行らない。ここにはメインストリートをつくるべきだ、と。しかし、偉い先生が座長をされていたので、わたしのような若造が言うことは聞き流されてしまった。今の西新宿は、27 歳のわたしが言った通りの問題が起きています。
一方で、せっかく良い街並みだった東新宿も安売り家電屋ばかりになったうえに、旧三越に「ビックロ」という白い箱ができた。伊勢丹と三越がせっかく合弁会社をつくって一緒にやっているにもかかわらず、伊勢丹の前に四角い安物の箱ができてしまった。僕らが青春を過ごした新宿はどこにいったのか。日本の街はこういうことでいいのですか?
表参道に新しい街の流れをつくり出す
わたしは表参道という街にずっとかかわってきました。根津美術館の近くにフロムファーストという建物を1975年につくりました。この建物のプロデュースが初めての街への仕事です。当時はスポンサーが一切見つからず、テナントもいなかった。そんな中で、お金を出してくれたのは、海底炭鉱の会社であった釧路の太平洋興発です。炭鉱会社が生活産業の会社へ転身するという大きなテーマで仕事をしていました。その会社の最初のフラッグシップ商品がフロムファーストです。
フロムファーストから表参道に向かって、新しい街の流れをつくり出すことを考えました。建物と人とストリートが一体化する空間をつくりたかったので、道とのかかわりを考えて、建物の一角にカフェレストランをつくって、外にイスを置きました。街路樹のアカシアの並木も都庁の役人に言って植えさせました。何もないところから、そうやって街をつくっていきました。
50歳の転機―原宿キャットストリートへ
わたしは今71歳ですが、50歳のときに大きな転機がありました。仕事はうまくいっていましたが、自分ではほとんど何もしなくてよかったんです。安藤忠雄の双子の弟の北山孝雄が副社長でがんばっていたので、わたしは「先生どうぞ」といわれて、座って偉そうにしておけばよかった。そんな状態のときに、アウトドアブランド・パタゴニアの創業者であるイヴォン・シュイナードと米国ワイオミング州のグランドティトンという山に登る機会があり、わたしは山の頂上で「会社をやめるぞー」と叫びました。彼のおかげで完全に会社をやめることができたんです。あのままでいたら、いまごろつまらない男になっていたかもしれない。
彼はパタゴニアを良くしていくために、日本でどのような店舗をつくればいいのか悩んでいました。そんなときに、アメリカのジャクソンホールの釣り場でうちの女房がつくったおにぎりを食べながら彼と話し合ってできたのが、パタゴニアの東京・渋谷店です。上の階にはわたしの事務所が入りました。そこからキャットストリートが形成されていくわけです。それまで、ゴミと落書きと、座り込んでいるチーマーのたまり場だったストリートが変わっていきました。
街の流れを考えて建物を消す
キャットストリートができていく過程で、もう一つ大事なことは、hhstyle.com原宿本店をつくったことです。世界の良い家具を販売しているインターオフィスという会社に「出店してくれないか」と頼みました。設計者だった妹島和世は今やプリツカー賞を受賞して大変な人気ですが、最初彼女はまちの流れにそぐわない建物を提案してきました。「キャットストリートにそんなものを建てるな」とわたしは怒ったんです。そういうことをすると、「妹島和世に物を申せるのはあなたくらいしかいない」と言われる。なんでそんなに建築家というのは偉いんですか?
わたしは「自然に街が流れるために、あなたが目立ったら困るんだ」と言いました。彼女はなかなか案を変えたがらなかったのですが、「自然に流れている川は美しい」ということをわかってくれました。僕が夏休みを終えて、アメリカから日本に帰ってくると、変更案を持ってきました。それはすばらしかった。その後、hhstyleの原宿本店は閉店して、キデイランドの暫定ショップになって、今は古着屋になってますが、いまだに雰囲気は伝わりますから、街の流れとして見ていただくといいと思います。
1階をコギャルに占拠させない
渋谷のQ-FRONTというビルをプロデュースしたときも、建物を消してくださいとお願いしました。渋谷駅前に450平米のLED スクリーンのあるビルをつくって、TSUTAYAのフラッグシップストアを入れることを提案しました。建築はアール・アイ・エーという会社にやってもらいましたが、実によく消えてますよね。建築は何も主張してない。巨大スクリーンだけが前面に出てきている。
まちづくりの観点から、もっと大事なことは、1 階をオープンにしなかったことです。普通は足元をオープンにしたがるんです。建築家もオーナーも「1 階を開けましょう」と言いました。でも、1 階をオープンにすると、当時のコギャルの女の子たちがたまって、売り場にならない。わたしはコギャルのリーダーみたいな女の子をよく知っていたので、決定的な会議のときに彼女たちを呼んだんです。「1 階が開いていたら、あそこで待ち合わせをするし、携帯電話を持って座り込む」という、彼女たちが普段思っていることを全部言わせました。その会議一発で、「1 階はガラス張りにしましょう」と決まった。そのおかげで、売上世界一のスターバックスが生まれたわけです。もし、1 階が開いていたら、スターバックスにはならなかったでしょう。
そのときのコギャルたちが、今の山ガールの原型になりました。渋谷のガングロだったお嬢さんが街を卒業して山に登っているわけですから、時代も人も変わるんです。最初の話に戻りますが、若い人はもっと主張すべきです。ビックロに対して文句を言うのは僕1人ですか?
変な建物が建ったら文句を言いなさい。そうしたら街も変わる。明日からビジョンを持って行動してほしいと思いますね。
都市と自然の両方で棲まう
わたしは27年前に、米国ワイオミング州のジャクソンホールというところに、家を建てました。それから毎夏過ごしていて、子供が小さいときには冬も過ごしていた。夏は釣り、登山、カヌー、カヤック、冬はスキーなど、いろんなことができるわけです。目の前にグランドティトンの山があって、スネークリバーが流れていて、街には15分で行ける。そうした場所に家があるということは、これからのリゾートのスタイルとしては、非常に良いと思います。その街も27年の間にすばらしく進化しました。
わたしは複数の住居を持ち必要に応じて住み分ける、マルチハビテーションの人と言われています。そうしたライフスタイルを通して、世界中でさまざまな交流があり、わたしの中では遊びと仕事とまちづくりと自然がすべてつながっています。面白い生活を求めていくと、全部リンクしていくんです。都市を捨てて、自然の中で隠遁するのではなく、アンフェビアン(都市と自然の両棲類)として、都市を楽しみ、自然も楽しむ。わたしは都市の技術が、これからの自然を救出するだろうと思っています。