建築学部開設記念レクチャーシリーズ

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建築学部開設記念 レクチャーシリーズ 3
No.9 磯崎 新(いそざき あらた)×藤森 照信(ふじもり てるのぶ) 講演会
「茶室談義―伝統と現代」

 工学院大学では、2011年4月の「建築学部」開設を記念し、当学部の幅広い教育研究領域を代表する気鋭のプロフェッショナルを外部から迎え、多くの方々にお楽しみいただけるレクチャーシリーズを開催しています。

 第9回は日本を代表する世界的な建築家である磯崎新氏と、建築史家であり近年国内外で茶室をつくっている建築家藤森照信氏の対談です。日本の伝統的な極小空間である茶室をテーマに、現代における諸々の空間様相について語る「全方位的談義」。

第9回建築学部開設記念レクチャーシリーズ 磯崎 新、藤森 照信
開催日時

2012年11月10日(土) 18:00~20:00(開場17:30)※終了しました

会場 工学院大学新宿キャンパス 3階 アーバンテックホール(アクセスマップはこちら
講演テーマ 「茶室談義―伝統と現代」
講演者
磯崎 新

Arata Isozaki (Arata Isozaki & Associates)

Arata Isozaki

-プロフィール -

○建築家。1960年代に大分市を中心とした建築群を設計。90年代には、バルセロナ、オークランド、クラコフ、京都、今世紀に入り中東、中国、中央アジアといった国内外での設計活動を行う。建築評論をはじめ様々な領域に対して執筆、発言をしている。カリフォルニア大学、ハーバード大学などの客員教授を歴任、多くの国際コンペでの審査員も務める

藤森 照信

Terunobu Fujimori (工学院大学建築学部 建築デザイン学科教授)

Terunobu Fujimori

-プロフィール -

○工学院大学教授、建築家、建築史家。専門の建築史学にとどまらず広範な内容の著作も多数発表。日本建築学会論文賞ならびに作品賞を受賞。多くの建築作品も手がける一方、国内外での展覧会を開催するなど幅広い活動を行う。

ナビゲーター
冨永 祥子

Hiroko Tominaga (工学院大学建築学部建築デザイン学科准教授)

主催
工学院大学建築学部
共催
空間デザイン機構
後援
一般社団法人日本インテリアプランナー協会
協力
六耀社
お問合せ先
工学院大学 建築学部開設記念講演会事務局
電話番号:03-3340-0140
その他
ポスター(PDFファイル236KB)

summary

藤森磯崎さんが建築において伝統を意識したきっかけは何だったのでしょう。
磯崎1950年代、私は丹下健三さんの下にいました。伝統論争というのがあって、桂離宮や伊勢神宮と現代建築との関係が盛んに語られたわけですが、実は建築と伝統という主題は、戦前から既にあったんです。歴史は戦前と戦後でつながっているんですが、戦後はそうしたことついて、だれも触れなくなっていたんですね。それで、1970年ごろに、当時の大家とされる建築家たちにインタビューしました。これは『建築の一九三〇年代』という本にまとまっていますが、そのころでしょうか、伝統ということをはっきりと意識したのは。
藤森丹下さんもそうですね。戦後になって日本を代表する建築家として活躍するようになりますが、その建築の特徴は戦前の段階で、既にでき上がっています。具体的に言うと柱と梁の美しさ。世界のモダニズムを見渡しても、柱と梁の両方をやった人は、当時、日本以外ではほかにいません。
磯崎そういう美学が日本建築で育まれるようになったのが1930年代。それより前は、日本にもありませんでした。モダニズムを理解することと、日本という伝統を解釈するということが、同じ目線で見えるようになる。このへんから新しい日本建築が生まれたのだと思います。

非主流派として始まった日本の近代建築

藤森日本建築の構成的な特徴のひとつは、外部と内部がつながってしまうことです。それに気づいたのは堀口捨己さん。しかし堀口さんは構造への興味がない。一方、丹下さんは柱と梁、つまりフレームが美を与えるということに気が付きました。これは大発見で、ヨーロッパの建築家も気付いていなかったことです。ル・コルビュジエは柱だけしかやらなかったし、ミース・ファン・デル・ローエも坂倉準三さんに教えられて初めて気づく。丹下さんはそれをいち早く、コンクリート打ち放しで実現するわけです。それに影響を受けたのが、ルイス・カーンやポール・ルドルフ。なぜかアメリカの建築家が強く影響される。
磯崎19世紀の終わりにシカゴで大火があって、その復興として、シカゴ・フレームと呼ばれる鉄骨構造のビルが建つようになります。それがひとつの要因になっているのかもしれません。日本では東大の佐野利器さんが、鉄筋コンクリート造のラーメン構造を推し進めます。地震国の日本では、そういう建築をつくるのが建築家の使命というわけです。それに対して、堀口捨己さんたちは反発する。それで始まったのが分離派の運動です。構造の大先生からいじめられた建築家たちによって、日本の近代建築は始まっているんです。
藤森堀口さんはとにかく構造が嫌い。その作品にも、どう梁が入っているのか、よくわからなかったりします。堀口さんは、丹下さんが前川國男さんの事務所で担当した岸記念体育館の感想を訊かれて、「構造体がむき出しで情緒がない」と答えたそうです。これは浅田孝さんに聞きました。
磯崎堀口さんのデビュー作である紫烟荘は、茅葺き屋根を載せた茶室ふうの住宅です。これを発表した時に「非都市的なるもの」という論文を書いています。建築家というのは都市をやるものと思われていたのに、堀口さんは都市でないものをやると言う。正統派の建築家から、外れていく道を採るわけです。その後に手がけた岡田邸も、とても不思議なデザイン。真ん中に一本の線が通っていて、その片方が木造の数寄屋、もう片方が鉄筋コンクリートのモダニズムになっている住宅です。ラーメン構造のフレームは、隠れていてわかりません。
藤森堀口さんは僕ら世代にとっては神秘的な人。日本で最初にモダン・ムーブメントを起こして、茶室の意義も発見する。だからこの人のことをあまり疑ったりできないのですが、茶室については、おかしなこともやっています。広い部屋をつくって、庭とつなげてしまう。これは利休が絶対にやってはいけないと戒めていたことでした。
磯崎堀口さんは利休の待庵について凄い文章を書いています。にじり口から一歩、中に入ると、そこは真っ暗闇で、背中に水をかけられるてもわからない、とかいうような……。これは待庵のことを実にうまく表現していると感動しました。堀口さんは茶室のことをとてもよくわかっている。でも個人的に好んではいなかったのかもしれません。
藤森そのとおりだと思います。彼が実作をつくるときには、二畳の茶室は絶対にやりません。
磯崎藤森さんの『茶室学』では、著名な茶室を採りあげて、それぞれがどうやってつくられたか、推定していますね。これは一般的には、歴史家はやってはいけないことでしょう。ここ書かれているのは小説なのか、学会論文なのか、よくわからない。でもそれが面白い。
藤森ありがとうございます。

茶室は身体性の空間、待庵は二人用の服

藤森茶室の歴史というのは三間三間で始まって、四畳半という広さが出てくる。四畳半は、日本という伝統を離れても、建築的な単位として、納まりがいいと思います。
磯崎二畳はどうですか?
藤森拷問ですね(笑)。あきらかに不愉快になります。三畳にして、窓から外が見えると、ようやくホッとできます。畳2枚の空間ははありえない。利休はどうしてこれをつくったのか。
磯崎敢えて不快な空間をつくったのでしょうね。
藤森四畳半はまっとうな建築としてつくれます。三畳は問題があるがありえなくはない。でも二畳の部屋というのは、何かの実験としてしか考えられない。レオナルド・ダヴィンチが描いた人体図がありますよね。あの正方形がちょうど二畳の大きさのはずです。つまり二畳の茶室というのは、建築空間の基礎を示そうとしたものなのかもしれません。ダヴィンチは描いただけですが、利休はそれを本当につくってしまった。それが待庵です。
磯崎なるほど。レオナルド・ダヴィンチの図は、円と正方形が重なっていて、幾何学と人体の関係を表したものとされていますが、そこに部屋が想定されていた、と。思いもよらない着想ですね。これが藤森さんのすごいところ。
藤森実は待庵で、大の字に寝転んでみたんですよ。そうするとちょうどいい部屋の大きさです。
磯崎でも、ここに2人が入るんですよね。
藤森そう、ひとりのための空間ではない。1対1で対峙する空間。なぜひとりの空間ではなく2人のための空間を極小として考えたのか。
磯崎それまでの空間とはまったく違う、価値観をひっくり返すようなことをやりたかったのでしょうね。藤森さんがつくった高過庵にもそうした意図はあったのではないですか。
藤森優れた建築家の多くは、自分の作品がなぜ美しいかについては絶対に触れない。それ以外のところを理論化してしゃべるだけ。それを知っているので、私も自分のことは考えないようにしているんです。
磯崎藤森さんは僕の建物を批評して、建物に入ると脚が浮くようなんだと、書いてくれた。実は、それこそ僕がやりたいことでもありました。身体で建築を感じてくれている。
藤森磯崎さんは、ブルネレスキがつくった巨大ドーム空間にすら身体性を感じ取られますよね。
磯崎外国人を京都の茶室に案内すると、彼らはその中で立っている。私は座れと言って、「これが茶室の空間なんだ」と説明します。それでも利休の目線よりは高いですけど。
藤森熊倉功夫先生から茶室は茶道具のひとつに過ぎない、と言われた時、これは何とか反論しなければと思って、待庵の歴史を調べました。利休が創作茶碗をつくり出すのは待庵の後、要するに、最初に利休は茶室をつくっている。その後に茶碗。だから茶室は茶道具の範なんです。
磯崎私は待庵は“服”である、とらえています。二人用の服。待庵について語ることは、服の仕立てがいいとか悪いとかを語っているのと同じような感覚があります。つまりは、身体の表面にあるものですね。